Wednesday, September 29, 2010

ワクチン接種法:日米の違い

大腿部にワクチンの筋肉注射(CDC)

アメリカではインフルエンザ・ワクチン,三種混合DTaPワクチン,
Hibヒブ(インフルエンザ菌b型ワクチン),プレベナー(肺炎球菌ワクチン)
は筋肉注射でやっています。 日本ではこれらはいずれも皮下注射です。


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頭ジラミ(毛じらみ)

毛髪に付着した頭ジラミの卵,顕微鏡で強拡大Public Health Image Library
頭髪の根元に白い小さいごま粒より小さいものが毛についています。これはシラミ
の卵です。子供では頭に寄生することが多く,保育園,幼稚園,小学校で集団感染
することがあります。


シラミの種類:
ーーーーーーi ) 頭部に寄生するアタマジラミ(Pediculus capitis)
ーーーーーーーアタ:アタマジラミは成虫の体長が数mm。主として小児の頭髪に寄生。
----------------ii) 衣類に寄生するコロモジラミ(Pediculus humanus)
ーーーーーーーーー:着衣している衣類に寄生。寄宿舎などの集団生活の場で。
ーーーーーーーーーー発しんチフス、回帰熱の病原体を媒介するシラミ。
吸血中のコロモシラミの雌(Public Health Image Library


----------------iii) 陰毛に寄生するケジラミ(Pthirus pubis)
:体長は1~2 mm程。思春期以降〜成人。



シラミに咬まれるとかなり掻痒が強い。家族の間でも感染しますので兄弟姉妹
それにお母さんは要注意。

治療:頭ジラミにはスミスリン・シャンプーで洗い3日に一度,2週間つずける。
ーーー大人の陰毛:スミスリンパウダーを3日に1回陰毛部に散布して2週間続ける。


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Saturday, September 25, 2010

ポリオ経口ワクチン(秋の投与)



投与期間:9月1日〜10月15日(宇部市)
経口ポリオワクチンの対象者:(1)生後3か月〜7才半未満
ーーーーーーーーーーーーーー(2)昭和50年〜52年生まれ
接種回数:2回

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Monday, September 20, 2010

ペニシリン(その21):日本でのペニシリン開発

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日本のペニシリン開発
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日本のペニシリン開発に最初から従事された梅沢浜男博士が書かれたものが
あります。ランセットへの発表がAugust 16, 1941. でしたが,当時は入手が
困難でした。梅沢博士は偶然,ドイツ潜水艦で運ばれてきたドイツ医学雑誌
にペニシリンについて書かれていた記事を見て,それをたよりにして研究を
開始します。

1944年(昭和19年)1月末に日本でペニシリンを作るための委員会が軍に
より招集され,9月終わりには最初のペニシリン粉末を採取しています。
この間わずか8ヶ月。12月には森永製菓の工場で第1回目の製品ができてい
ます。しかし当時の日本には大量生産にのせるだけの力はなく実験規模の
生産だけに終わりました。

梅沢浜男 著:【抗生物質をもとめて】文芸春秋1987年から

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昭和18年の秋から,陸軍軍医学校を手伝うようになって間もなく, それは11月
の終わりの頃であったと記憶するが,軍医学校の稲垣克彦 少佐の部屋に行くと
机の上に外国の専門雑誌が載っている。 

 外国の文献が全く途絶えていたので,飢えた人が食べ物をみた時の ように,

それにかじりついて目を通していくうちに,ドイツの臨床週 刊誌ドイッチェ・
クリ−ニッシュウオヘン・シュリフトの中に『微生物 から得られた抗菌性物質』
というキーゼ博士の論文に目がとまった。 少佐に聞くとこれらの雑誌は最近,
ドイツから潜水艦で運ばれてきて, 文部省に届いたものであるという。 

 この論文には当時のドイツにはいってきた抗生物質ニュースを詳し く総括し

てあり,英国ではペニシリンの研究が非常に進んでいること, 臨床的にも威力
を発揮していることなどが書かれていた。キーゼ総説 をよんで以来,私はすっ
かりペニシリンにとりつかれてしまった。 命令もあり,私は昭和18年の暮れの
休みを利用して,この翻訳を完成 させた。稲垣少佐は これを持ってペニシリン
の必要性を 研究課題と してとりあげるように軍医学校の幹部に説いまわって
いた。 

 そして昭和19年1月27日朝日新聞にベルリン発の記事 『 英米最近の医学界,

チャーチル首相命びろい,ズルフオン剤を補 うペニシリン 』という見出しが
躍っていた。この記事は<魔法の薬> という表題で4,5回続したように記憶して
いる。 

この記事の翌日には,稲垣少佐に”ペニシリン研究委員会の発足と, それに関係

する学者を全部集めろと”いう命令がでた。 メンバーは 柴田桂太教授(東大
植物学),薮田貞治郎教授(東大農学部。カビの 生産物で世界に知られた) 
竹内松次郎(東大細菌学),田宮猛雄( 東大衛生),石館守三(東大薬学)な
ど20人ぐらいの方々。 

まずペニシリンを作るカビを見つけることから始められ,6月ごろには, 有望

と思われる青かびの菌株が数種選択された ---- 9月おわりには  薮田教授か
ら提供された176株の培養液からわずかながら黄色い粉末が とれた。驚いたこ
とに,640万倍に希釈してもブドウ球菌の発育を阻止 した。これは大体30%ぐ
らいのペニシリンの純度であった。 

---- 森永製菓の工場で ペニシリン生産をはじめ昭和19年12月に は第1回目

の製品ができた。昭和20年1月から万有製薬も参加した。  


---- これは後から聞いた話だが アメリカ政府はペニシリンの開 発に2,500万
ドルかけたという。今(昭和55年)のお金に換算すると 500億円。日本の場合 
稲垣少佐はこのプロジェクトのために15万円 準備したと言っておられたから,
今で言えば15億円。しかしこれをつ かうにも日本には物資がない時代であった
から全部はつかわなかった のではないかと思う。 

----- 終戦後,私はGHQに日本のペニシリン研究について報告した。 翌21年には 

GHQは日本のペニシリン生産のためアメリカの製薬会社 メルクにいた経験のある
テキサス大学のフォスター教授を招いた。 フォスター博士は,タンク培養用の
Q176菌株,それと瓶で培養する 表面培養用の1951B菌株という2つの菌をアメリ
カから持ってきた。  私は彼を案内して帝国臓器,明治製菓などを視察した。

----- 昭和21年7月頃からペニシリンどんどん作られるようにな った。全生産量

の90%が明治製菓からであった。昭和23年頃のはじ めは,まだ大掛かりなタンク
培養は始まらず瓶培養であった。 
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ペニシリン(その20):マーガレット・ジェニング




写真:Dr. マーガレット・ジェニング

ケン・フォレットの小説 Eye of the Needleにでてくる女性のようで
意志の強い感じを受けます。小説では英国に侵入したドイツ人スパイ
がU-ボートに連合国軍の上陸地点がノルマンデーであることを伝えよ
うとします。英国女性はソケットに自分の手を突っ込んでショートさ
せ通信を妨害するという小説です。

ジェニングはフロリー教授の下で,ペニシリンの細胞,組織への影響
を研究。晩年フロリーは奥さん(Dr. Ether Florey) に先立たれましたが,
1967年にはジェニングと再婚。しかし 翌年にはフロリー教授は
心臓発作で死去します。享年69才。葬儀はMarstonという田舎町に
あった家の前の小さな教会で行われました。


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ペニシリン(その19):分離精製とノーマン・ヒートレイ





写真:ノーマン・ヒートレイ(1911−2004)
写真:若い時
ペニシリンカビの培養ビンからの培養液回収法

ペニシリンの抽出工程,オックスフォード大学,1942年 

ヒートレイは写真でみるように,温厚,誠実,繊細と言う言葉があてはまる
イギリス紳士。実験研究には不可欠な人材です。オックスフォード大学の
ペニシリン開発チームの一員として参加しました。2000年オックスフォード
大学はその800年の歴史以来初めて,医者以外で彼に名誉医学博士号を授与
しました。2004年93才で逝去。

ランセットに発表されたペニシリンの論文には彼の名前もあります。
Abraham EP, Chain E, Fletcher CM, Florey HW,Gardner AD,Heatley NG, 
Jennings MA,: Further obsevations on Penicillin.The Lancet, 238:177-188, 
August 16, 1941.

ペニシリンの抗細菌活性を定量的に測定する方法( cylinder-plate法 )
Heatley NG,: A method for the assay of penicillin. Biochem J.1944; 
38(1): 61–65.,また培養液からペニシリンを抽出するのにBack-extraction 
法(counter-flow exchange)を用いました。

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ペニシリン(その18):1945年度ノーベル医学生理学賞


写真:1945年度 ノーベル医学生理学賞の受賞者

ロンドン大学:アレキサンダー・フレミング卿
オックスフォード大学:アーンスト・ボリス・チェイン
オックスフォード大学:ハワード・ウオルター・フローリー卿

1945年ノーベル財団は,ペニシリンの発見及び各種感染症に対するその
治療効果の発見で,医学生理学賞をフレミング,チェイン,フローリー
の3名に授与します。

イギリス,アメリカの新聞雑誌がフレミングのみを取り上げたのに対して
ノーベル財団は公平な判断を下しました。

ノーベル賞は科学上の発見に重点をおかれてます。しかし科学上の発見
には,かならずそれを支える新しい技術の支えがあってはじめて可能と
なります。私はペニシリンの精製分離をする上で技術の工夫をしたヒー
トレイも受賞すべきであったと思っています。


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ペニシリン(その17):1944年ノルマンデー上陸作戦


1941年10例の治験成功例の公表後もで英国製薬企業には,このペニシリン研究
の援助を行うこと,将来くすりとして有望であるから企業化しようとの動きがあり
ませんでした。

フローリー教授とヒートレイはアメリカにわたり米国政府,メルク社をはじめと

した米国製薬企業の協力を仰ぎます。こうしてペニシリンの生産は開発された
英国でなくアメリカでなされることなりました。

3年後,1944年6月ノルマンデー上陸作戦の時にはアメリカのペニシリン製造は
約4万人分/月産にまでなりました。このペニシリンの9割はアメリカの製薬会
社ファイザー社が,深底タンク発酵法で作りました。

→ http://www.pfizer.co.jp/pfizer/company/150_history/start.htm

同年,ファイザー社は製造特許を取得しました。

生化学者であったチェイン博士は反対しましたが,フローリー教授はペニシリン
の製法に関して特許をとる意図がまったくありませんでした。皮肉なことに,
第二次大戦後ペニシリンの販売で英国製薬会社がアメリカの会社に特許を払う

はめになりました。その後,セファロスポリン系抗生物質が同じオックスフォー
ド大学の研究者により発見されますが,ペニシリンの失敗に懲りて特許を取得し
ました。


ご質問はーーー
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ペニシリン(その16):構造決定,エルンスト・チェイン



写真:チェイン博士(1906ー1979)

最初の10例の患者に投与されたペニシリンの純度は不十分(精製度は
50-70%)ぐらいでした。その後,チェイン博士はその精製分離,化学
組成の分析,構造決定へと研究を進めます。同時にイギリスの 
the Imperial College of Science, Burroughs Wellcome Ltd., Imperial Chemical
Industries, Glaxoなども研究に参入します。

さらにアメリカではペニシリンの大量生産の為に国家をあげて取り組み,
ペニシリンの構造決定には200名以上の化学者が参加します。
特にメルク社の研究所は豊富な資金,資材と人で研究に成果をあげます。

一方のオックスフォード大学では,患者の臨床治験の続行と同時にチェ
イン博士らは構造決定の研究も行い,1943年10月には最初にペニシリン
の構造式の提示をします。

1943年には英国とアメリカの両国政府はペニシリンの構造に関する論文
の公表を禁止する処置を行います。その後1年あまり両国の研究者は
お互いの研究進展状況がわからなくなります。

最終的にはペニシリンは4種類あることがわかりました。イギリスでは
その発見順にペニシリンI, II, III, IV と命名。 アメリカでは F ,G, X, K
と命名します。

ナトリウム塩の結晶として精製されたものの化学組成は---------------
Penicillin I (F) =C14H20O4N2S
Penicillin II (G)= C16H18O4N2S
Penicillin III(X) =C16H18O5N2S
Penicillin IV(K)= C16H26O4N2S

原子量 C=12, H=1, O=16, N=14, S=32なので,その分子量は----------------

Penicillin I (F) =12x14+1x20+16x4+14x2+32=312
Penicillin II (G) =12x16+1x18+16x4+14x2+32=334
Penicillin III (X) =12x16+1x18+16x5+14x2+32=350
Penicillin IV(K) =12x16+1x26+16x4+14x2+32=342

基本骨格は 6-amino-penicillanic acid で,そこには炭素原子3個と
窒素原子1個が連結したベーターラクタム環構造をとり,その側鎖の
分子のわずかの違いがあるだけです。ベーターラクタム環のあること
の最終証明は,その後のX線結晶分析で解決しました。

参考) Ernst Chain: The chemical structure of the penicillins,Nobel Lecture, March 20, 1946.
                →http://nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1945/chain-lecture.html



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ペニシリン(その15):当時の英国医学会の態度

--------ペニシリン治療成功をめぐる英国医学界の見解--------

フレミング博士は当時の英国の医師倫理規定に違反して,新聞雑誌に自己宣伝
をおこなった。 
これに対して英国医師会は処罰をせず,またペニシリン療法
開発をめぐる誤った新聞雑誌報道に対して何の手も打ちませんでした。

その大きな理由の1つは,この誤った報道で利益を得た人間が,フレミング博
士の所属していた聖メアリー病院にいたこと。1人は直接の上司であったライ
ト博士,もう1人は当時のチャーチル首相の主治医であり聖メアリー病院医学
校の責任者であったモーラン博士です。

残念なことにフローリー博士には医師会ないし科学界の上層部の援護がなかっ
たことです。


医者,医学者,他分野の科学者は,一般人と異なり,その能力の一部ですぐれ
た才能をもった人が多いは事実ですが,人格としては問題のある人間が多いの

も事実で,天は2物を与えず。

フローリー博士はオーストラリアのアデレイド生まれで生粋の英国人ではあり
ません。優れた研究をおこなって成功した人間に対して素直に賞賛する人がい
ると同時に,逆にうまくやったという嫉妬心を持つ人間が足をしばしばひっぱ
るのはどの分野の職業にも時代が変われどいるものです。

新聞雑誌の誤った報道で傷つけられる事態は,60年以上もたった現在の日本
でもまったく状況が変わらないのは困ったことです。
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フローリーはけっしてなにもしなかったのではない。1942年12月11日,
王立協会の会長ヘンリー・ダーレ卿に手紙をかいた。

『 あなたも知ってのとおりペニシリンについて新聞雑誌社によって
望ましからざる公表がたくさんなされてきた。わたしはこれまで信念
をもって新聞雑誌のインタビューには応じてこなかった。ガードナー
教授はその態度が誤っていると私にいった。フレミングからの私へ手紙
では、彼自身が同じことをしようと努力していると言った。だからこれ
で新聞の公表は止むであろうと思った。私は彼の言葉を額面どおりに受
け取った。

しかしBBC放送の総局長や、聖メアリー病院の幾人かによれば、フレミ
ングはペニシリンの仕事を全て自分で予見してやったかのように自己宣
伝しているとのことである。わたしの意味するところは、Britain Todayに
でたフレミングの写真とその記事。この続いている宣伝は科学界の人間
ですら影響をうけている。(しかしあなたもまた、ペニシリンについて
は少し仕事をしたね)と。                』

そして、つづけて手紙の中で、真実を明らかにした論文を公表すること
についての意見をダーレもとめた。これに対しダーレはフレミングに反駁
することのないようにフローリーに頼んだ。フローリーが王立協会の評議
員であり、フレミングいまその候補者となっている時に2人の対立は好ま
しくないとダーレは判断した。だからフローリーはその後も黙したままで
あった。だがその後もフレミング神話は国際的規模まで拡大した。

1944年6月19日 フローリーは医学研究協議会の書記であるメランバイに
手紙を書いた。

『 親愛なるメランバイ
この手紙を書いたのはあなたの手助けをもとめるからだ。私にはとても耐
えられる状態ではない。ここオックスフォードの我々をずーとイライラさ
せてきた原因は---無節操なキャンペーン。ペニシリンの仕事の総てが聖メ
アリー病院のフレミングによってなされたとのキャンペーン------ 。

私のポリシーとして,これまで新聞雑誌記者のインタビューや、電話によ
る問い合せにも一切応じてこなかった。反対にフレミングはなんらの制止
もなくインタビューにでて写真をとられ-------云々。写真の見出しは 
『彼はペニシリンの発見者(事実だ)。その化学療法の発見へと導くすべ
ての仕事をした(事実でない)。 

いかにこれが不公平であるかあなたは分かっておられるはずです。”なぜ
困惑するのか”があなたの答え。私はしばしば周りの人々からなぜ何もし
ないのか?と尋ねられる。私は新聞に公表する意志はありませんし権利
もありません。私が提案できることはペニシリンがいかにして医学に導
入されたかの事実を明らかにした声明を医学研究協議会から発表される
ことです。                    敬具     』

6月20日付のメランバイの返事

『 親愛なるフローリー
 ペニシリン発見の大衆の歓喜を持上げるフレミングの尋常でない態度で、
あなたと同僚がむつかしい立場にたっていることについて話しをもてた
のは私の喜びです。この前言ったように、新聞に無言であり、またあな
たの研究室でやった仕事をすべてフレミングに割り当てられたのは寛大で、
すばらしい。短期あるいは長期的見地から判断しても望ましい。

この国や他の国の科学者はこの事態を正確にとらえている。みんなわかっ
ている。科学的見地からも、あなたと同僚の仕事は、フレミングより遥か
に高いレベルにあることがわかっている。あなたの立場をイライラさせて
いるのは理解できるが,しかしこれは束の間の反応だということは分かっ
ていると思う。吐き気を催すのでなく飲み込まれるのがよい。新聞雑誌の
一時的キャンペーンは笑顔でやり過ごせばよい。       敬具 』

この手紙はフローリーとオックスフォードの同僚にはなんの慰みにもな
らなかった。メランバイは医学研究協議会がこの騒動に巻き込まれるのを
明らかに避けた点、またこれは一時的な反応だという認識はあきらかに間
違っていた。ときの指導的な科学者の影響を過大評価しすぎ、新聞雑誌の
力を過小評価していたと言わざるをえない。
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Gwyn Macfarlane, Howard Florey- the making of a great scientist,
1980, Oxford University press. から翻訳。


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休憩

ペニシリン(その14):当時の英国の新聞報道(3)

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ペニシリンをめぐる当時の英国の新聞報道(その3)
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----- つずき

こうしてつぎの2年間には、フレミングのインタビューとその記事のみが
数多く新聞に掲載された。世間の人はこうしてペニシリンの仕事がフレミン
グ1人によりすべて実現したと思った。この新聞の”ペニシリン物語り”は
より詳細に、まことしやかに書かれたため事実を知っている人々でさえ自分
の記憶を疑うほどになった。

事実は
第1,1929年から1941年にかけフレミングはペニシリン療法
ーーーについてはまったくなんの仕事もしていない。
第2, オックスフォード大学のフローリーらのチームが最初
ーーーにペニシリンを生産し動物実験をした。
第3, オックスフォード大学病院でフローリーらのチームが
ーーー最初に患者に投与し臨床治験をした。

新聞のキャンペーンではことごとくこれらの事実が無視され、まことしや
かな詳細な嘘がいろんな形を変えて現れた。1959年に出版されたマーロスの
フレミング自伝、 1974年発行のヒューズによって書かれたもの、さらに
1974年に出版された聖メアリー病院の微生物学者によるフレミングの物語な
ども事実をことごとくねじ曲げ、ペニシリンの生産や動物実験もフレミング
の研究室でなされ、最初の患者へ投与や臨床治験も聖メアリー病院でなされ
たと書いている。フローリー、オックスフォード大学という言葉は完全に削
除されどこにも出てこない。

どうしてこのような事実の歪曲が印刷され、宣伝され後には映画やテレビま
で作られたのか? 新聞記者は情報の正確さより“いい話”を作りだすこと
に主たる関心がある。

”フレミング神話”がなぜ成長したのか?

第1, フレミング自身もこれに一役かったのは疑いない。彼はプレスのイン
ーーータビュ−でフローリーの仕事、オックスフォード大学で行われたこと
ーーーをすべて省いた。
第2,  フレミングの背後にいた2人の人物。彼の上司であるライト博士,
ーーーそれと聖メアリー病院医学部長であり、チャーチル首相の主治医でも
ーーーあったモーラン卿。2人はともに名誉、栄光、資金欲が強かったこと
ーーーである。

こうした聖メアリー病院の新聞キャンペーン対するオックスフォード大学
の反応は複雑であった。”いずれ真実が明らかになる”という信念に基いた最
初の無関心は、真実は”紙”によって容易く反古にされるということが明らか
となり次第に腹立ちとなっていった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


Gwyn Macfarlane, Howard Florey- the making of a great scientist,
1980, Oxford University press. から翻訳。


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ペニシリン(その13):当時の英国の新聞報道(2)

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ペニシリンをめぐる当時の英国の新聞報道(その2)
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フレミング博士は1928年にペニシリンを発見した後,ヒトの感染症に
使用するための研究を続行しませんでした。 1942年聖メアリー病院
にいたフレミングはフロリーに精製したペニシリンの提供を頼みます。
フロリーはペニシリンを聖メアリー病院に持参して,その投与法を
フレミングに教えます。


聖メアリー病院に入院中の化膿性髄膜炎の患者は見事に治癒しました
が,その後の新聞報道が正確ではありませんでした。



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1942年8月5日 聖メアリー病院のフレミングはオックスフォード大学
のフローリー教授に電話をした。

彼の友人がここ7週間,聖メアリー病院に入院中で、現在は連鎖球菌に
よる髄膜炎になり状態が悪化していると,そしてペニシリンの提供を頼
んだ。フローリーはすぐ、研究室にあったペニシリンのストックをもっ
てロンドン行きの列車に乗り,フレミングにその使用法を教示した。

6日間指示どおりに投与されたが効果なし。ペニシリンが脳脊髄腔には
達していないのだ。フローリーの指示でこんどは直接髄注(腰椎穿刺し
髄膜腔に注射する)したところ患者は回復した。これはヒトへはじめて
ペニシリンを髄注した症例であった。もちろんそれ以前にフローリーは
動物では行っていた。この成果はオックスフォード大学の治療例に加え
るということで2人は同意した。

髄膜炎の患者が助かったことは聖メアリー病院中を興奮にまきこんだ。
タイムズは”奇跡的治癒”と一面報道し,記事のなかで研究者の名前は出
さないでオックスフォード大学の仕事であると報じた。

8月31日 聖メアリー病院のフレミングの上司であったライト博士は
すぐタイムズの編集者に手紙を出した。

『 昨日の貴社のペニシリンの記事は、この栄誉が誰に
-------与えられるべきかに関しては何も書かれていない。
-------この栄誉はフレミング教授にあたえられるべきだ。
--------彼はペニシリンの発見者でありまた医学に応用で
--------きる可能性を最初に示唆した人である                   』

この記事のあと、聖メアリー病院に報道陣が押し寄せた。フレミング
のインタビューはその夜のイブニングスタンダードに記事となり,翌日
には各社の朝刊にペニシリンの発見とその驚くべき効果の記事が出た。
News Chronicleはフレミングを”今週の人”として取り上げた。

9月1日 ロビンソン卿はライト博士に答える形でタイムに投稿した。
----------『  もしフレミングに栄誉が与えられるなら、それは花束だ。
---------------王冠はハワード、フローリー教授にあたえられるべきだ  』

翌日、今度はオックスフォードに報道陣が押し寄せた。しかしフロー
リーは面会を拒否した。これは彼は公衆の前にでるのを好まなかったか
らではない。ペニシリンのセンセイショナルな報道をすれば、人々の要
求の声がすぐあがるがそれに応えられるペニシリン供給の状態にはない、
かえって人々に失望をもたらすと考えていたからだ。また世のスポット
ライトを浴びることは研究者に混乱と研究の中断をもたらすことを以前
の経験から知っていたからだ。ドレイヤーの事件を思い出したかもしれ
ない。 

当時は、医者が個人的にプレスのインタビューに応じて、自分の業績
を宣伝することは倫理的自己規制があったし、General Medical Council
はそのような医者には免許取り消し処分をしていたのであった。フローリ
ーは開業医でも病院の臨床医でもなかったからその義務に服する必要が

なかった。しかし彼は医学に奉仕する身として職業倫理をもっていた。
だから新聞記者もプレスも当時はすぐに引き下がった。今ほど執拗に追い
掛け回すということは当時の新聞雑誌記者にはなかった。
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Gwyn Macfarlane, Howard Florey- the making of a great scientist,
1980, Oxford University press. から翻訳。


質問,問い合わせ先:
〒755ー0097
山口県 宇部市 常盤台1丁目20−2
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ペニシリン(その12):当時の英国の新聞報道(1)

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ペニシリンをめぐる当時の英国の新聞報道について(その1)
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1941年8月にペニシリン療法の論文がランセットに掲載された後,
しばらくして,当時の英国の新聞雑誌はフレミングを一斉に取り上げ

一躍,時の人に仕立て上げます。そしてオックスフォード大学の仕事
を無視した報道をつづけます。

なぜオックスフォード大学のフローリー教授の仕事の成果が正確に
報道されず、ペニシリン療法の開発までも聖メアリー病院のフレミ
ング博士がおこななったと報道されるようになったかの経過につい
て、英国の血液学者によって書かれたものをここに翻訳します。
経過を見る限り,これはフレミング博士の大失点です。

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 1941年8月30日 British Medical Journal はランセットに発表された
フローリーのペニシリン論文の書評を書いた。その中で1929年のフレミ
ング論文にふれ、その時点では彼はペニシリンの治療応用についてはな
んら言及してなかったと書いた。

これに対しフレミングは自分の仕事が評価されてないと異議を申し立て
た。公正な立場からみれば、彼が不平をいうことは何もない。フレミン
グはペニシリンを人の感染症の治療に使うことに関しては、なんの貢献
も努力もしなかったのだから。

1929年にフレミングが最初に報告したペニシリンについての論文の題
は次のように記載されている。

『 On the antibacterial action of culture of a penicillium with special reference to 

     their use in the isolation of B.influenzae 』 
      British Journal of Experimental Pathology.Vol. 10: 226.1929. 

この論文でフレミングは、インフルエンザ菌の分離培養のためにペニ
シリンを用いるとよいと書いた。そしてペニシリン感受性微生物に感染
した表面殺菌剤として効果あるかもしれないと短く言及しているだけだ。

1931年 British Dental Journalに Some problems in the use of germicides という

題で発表された論文にも彼の短いコメントの記載がある ------
『ペニシリンか、それと同様な性質をもつ化学物質が敗血症性損傷
 に使用できるかもしれない』----------

しかし,この預言もペニシリンの局所治療の事にほんの少しふれただけだ。
その後実際、フレミングはペニシリンについては、その精製、動物実験、
ヒトへの応用など、なにひとつ仕事をしていないし、論文も書いていない
のだ。
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Gwyn Macfarlane, Howard Florey- the making of a great scientist,
1980, Oxford University press. から翻訳。

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ペニシリン(その11):4才化膿性髄膜炎の治療

4才男児の化膿性髄膜炎の治療経過について-------------------------

現在も子どもの化膿性髄膜炎にアミノベンジル・ペニシリンが使用されています。
その静脈投与量は肺炎に使用する5〜10倍量。ペニシリンは静脈投与では血液中
から髄腔への移行が悪い(脳脊髄関門があり)ためにペニシリンを高濃度にする
必要があります。この例ではペニシリンが1時間おきに静脈投与されています。
髄腔への直接投与は行なわれていない。後に成人の髄膜炎で有効とわかる。

4才の黄色ブドウ球菌による髄膜炎の治療に要したペニシリンの投与総量は
おおよそ6.8g(人への治験当時,ペニシリンの精製度は50〜70%ぐらいでその
化学組成,分子構造は不明)。この量を得る為には約6,800リッターの培養液が
必要で当時の回収率は1/3。少なくとも10名の技術員が精製に従事しま
した。

不幸なことに子供は死亡。剖検(死後解剖)の結果は髄膜炎は治癒していたが,
脳動脈瘤の破裂で死亡。

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CASE 4. -----Boy, aged 4 1/2 years.

May 13, 1941. admitted with Cavernous-sinus thrombosis from septic spots on left
|||||||||||||||| eyelid and face following measles 5 weeks before. Had received 30g
||||||||||||||| sulphapyridine in 14 days before admission. Semi-comatose, incontinent of
|||||||||||||||| urine and feces. Gross oedema both eyelids(fig. 6a), especially Left, with
|||||||||||||||| bilateral proptosis. Complete bilateral external ophthalmoplegia and 2 dioptres
||||||||||||||| of papilloedema; neck rigidity; bilateral Kernig's sign and extensor plantar
||||||||||||||| response. Moist sounds both base.
||||||||||||||| Liver edge two finger-breadths below costal margin. Blood-culture sterile.
|||||||||||||| Lumber puncture gave a faintly yellow cloudy fluid under high pressure(see table III).
May 13: intravenous infusion of citrate saline at 10c.cm. an hour(rate maintained with
|||||||| slight variation for 9 days, the site of infusion being changed 4 times).
|||||||| Penicillin injected into infusion ; dose 100mg.hourly. for two doses,
|||||||| 50mg.hourly for four doses, then 25mg. hourly.
May 14: pus from incision made into left eyelid and swab from nose grew Staph. aureus.
|||||||| X rays:opacity of left antrum, ethmoids clear.
May 15: blood sample an hour after dose of penicillin showed no anti-bacterial activity;
|||||||| dose increased to 50mg. hourly. General improvement.
May 16: obviously better; swelling of eyelids largely subsided. Blood taken just before
|||||||| injection showed trace of antibacterial activity.
May 19: general and local condition vastly improved(see fig. 6b); bilateral 6th nerve palsy
|||||||| and extensor plantar response remained. penicillin reduced to 50mg. 3-hourly.
|||||||| Small corneal ulcer left eye treated with penicillin 1 in 5000, which caused no
||||||||  discomfort.
May 22: improvement maintained, patient talking and playing with toys.
|||||||| Chest clinically normal. Slight pyrexia still thought to be due to pyrogen in penicillin
|||||||| or to reaction from thromboses in veins used for injections(see fig.7). penicillin 
stopped.
May 26. progress good. Temperature normal. General condition excellent. eye movements
|||||||| returning. X ray of sinuses:only slight clouding left antrum; chest; patch of

 ||||||||consolidation
|||||||| left apex and small ring shadow right mid-zone. These thought to be embolic sighs but
|||||||| general condition so good that no further penicillin needed.
May 27: 1 A.M. vomited and had general convulsions. Lumber puncture gave uniformly
|||||||| blood -stained fluid under high pressure. Became comatose with neck rigidity,s
|||||||| positive Kernig' sigh and spastic limbs.
May 28: temperature began to rise again.
May 29: appearance much as on admission. penicillin 2g. given in next 36 hours,
|||||||| but died May 31.

TABLE III-----CEREBROSPINAL FLUID OF CASE 4
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Date ------pressure ----Protein ----Red cells ----White cells------Culture
------------------------------------------------------------------------------------------
May13 ---Raised ------110 --------v. few ----------109 --------Staph.aureus
May14 ---Normal------100-------- v. few ----------372 --------Staph.aureus
May19--- Normal -------60-------- v. few---------- 110 --------Staph.aur. and alb.
May22--- Normal -------95-------- v. few -----------45 ---------Sterile
May27---- Raised #---- 120------ 14,600 -----------56 ---------Sterile
------ omission
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# Cell-count done after fluid had stood for several hours

Autopsy(Dr.A.H.T. Robb-Smith).-------- Brain showed no thrombosis of main venous
sinuses; adhesion and old hemorrhage in hypophysical region. Considerable old and
recent hemorrhage in region of pons and cerebellum due to rupture of aneurysm on
left vertebral artery. Cavernous-sinus region and left orbit occupied by oedematous
granulation tissue; left carotid arter partially occluded by thrombus in its cavernous
course and completely occluded in its bony course. Both lungs showed scattered
abscess cavities, larger ones being air-containing cysts lined by yellowish membrane;
smaller ones containing yellowish material not exactly resembling pus. other organs
not remarkable.

Histologically granulation tissue is essentially similar whether in lung abscess, orbital
tissues or covernous regions(fig.8). There is a small central area of necrosis sometimes
containing a few gram-positive cocci; around this is an oedematous exudate with lipoid
-containing histiocytes;surrounding this is a granulation tissue formed largely of histiocytes
containing lipoid and blood-pigment, lymphocytes and plasma cells with a very occasional
neutrophil leucocyte; this tissue is well vascularized and there is some fibroblastic
proliferation, greatest in periphery.

In the cavernous region some of the veins contain organising thrombus; the left carotid
and vertebral arteries show organising thrombi which do not appear to be infected,
but as there are large breaks in the media and elastica of the walls of both these vessles
it must be presumed that they are the late results of an acute arteritis probably of bacterial
origin. The other organs show no significant change.

The autopsy showed that the infection in the cavernous sinus, orbits and in the lung had
been almost entirely overcome, and that healing processes were well advanced.
Death was due to the ruptured mycotic aneurysm and not to a recrudescence of the
infection. Before this vascular accident the patient had been restored from a moribund
condition to apparent convalescence. No toxic effects from the penicillin were noticed.
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引用)Abraham EP, Chain E, Fletcher CM, Florey HW,Gardner AD, Heatley NG,
Jennings MA,: Further obsevations on Pniecillin. The Lancet, 238:177-188, August 16, 1941.

ご質問は--------
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ペニシリン(その10):最初の治療を受けた患者


写真:ペニシリンカビの培養ビンからの培養液回収法

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最初のペニシリン療法を受けた患者
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最初のヒトへの投与症例の部分を紹介します。これはオックスフォード大学の
Radecliffe Infirmaryで Dr. Fletcher が担当しました。治療途中でペニシリンがな

くなり,患者さんの尿からペニシリンを再抽出して投与されましたが,絶対量
が不足で感染が再燃して死亡しています。

次の患者では投与量が少なくてすむ小児の患者を選択して投与し治療に成功
しました。

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症例1ー 43才警察官。
1940年10月12日入院。1ヶ月前から口角の潰瘍から始まり,顔面,頭皮,眼窩へと            化膿が拡大。ブドウ球菌が1次感染,化膿性連鎖球菌が二次感染。
12月12日〜19日間にサルファピリジン19g投与したが改善なし。
1941年1月19日 顔面,頭皮の多発膿瘍を切開。    
1月31日  右上腕骨頭の骨髄炎(X-Ray),    
1月21日  左眼の角膜穿孔,
2月3日     摘出。    
2月9日  輸血2パイント。    
2月11日  右目が膨隆,眼窩を切開し排膿。ブドウ球菌,化膿性連鎖球菌あり

2月12日  切開部から膿汁あり。Hb36%。血液培養は無菌。         
----------------ペニシリン200mg静脈注射,以後100mgを3時間毎に静脈注射。             最初の注射時に少し苦痛ありが他の副反応はなし。         
----------------24時間で800mgのペニシリン使用で劇的な改善あり。頭皮部から             の排膿なくなり腕からの排膿も少し。    
2月13日  ペニシリン100mg,4時間毎に静脈注射。    
2月14日  輸血3パイント。ペニシリン100mgを2時間毎に輸血チューブから            合計1.0g投与。    
2月15日  輸血1パイント。ペニシリン100mgを3時間毎に投与したが,これは           尿から回収して再精製したものを使用。    
2月16日  Hb74%,右目はほぼ正常になる。いくらかの膿が左眼と腕から。

2月17日  ペニシリン使い尽くす。ペニシリン総使用量5日間で4.4g。               患者の状態改善。発熱なく食欲も改善。顔面,頭皮,右眼窩の感染            は治癒。咳は出て喀痰に化膿性連鎖球菌,ナイセリア菌。左眼窩,
----------------右上腕部は依然として化膿。    
---------------- 10日間は変化なし,その後に悪化,特に肺 -------    
3月15日 死亡。解剖所見は多発膿瘍を伴った典型的なブドウ球菌敗血症。


白血球数の推移:
Feburary 12th, 20,000(polym 88%),
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13th, 19,000; ------------
14th, 11,200; ------------
15th, 16,800; ------------
18th, 8,400; ------------
19th, 7,600; ------------
20th, 7,600(poly84%) ------------
25th, 8,000;
March 5th,11,000(poly88%).
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引用文献) Further observations of penicillin. The lancet. 238;177-188, Aug.16, 1941.


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