Sunday, July 25, 2010

花火大会(宇部市)

宇部市の花火大会
7月24日(土)午後8時〜9時
山口大学工学部付近から撮影



Saturday, July 24, 2010

ガーナ大学医学部付属病院(Korle Bu Teaching Hospital)その2



撮影日時:1987年11月10日撮影
場所:  ガーナ大学医学部付属病院(Korle Bu Teaching Hospital)

病院内部の視察した時のものです。
遠慮なく小児科外来,手術室,病室を見学
しました。手術室は照明が暗くコンクリート剥き出し,病室の窓ガラスは一部破損。
熱帯熱マラリアの子供,PCM(Protein-Calorie-Malnutrtion,栄養失調),結核性髄膜炎
などが入院中。当時の病院状態では入院して治療をうけるのには日本人なら少々勇気
がいったでしょう。
病室からの眺め
病室から
病室内で;中野医師,Dr. Archampong医学部長, 日本大使館員
術後の回復室
小児科外来:体重測定,なかなか権威のある看護婦さん
小児科外来
小児科外来

ガーナ大学医学部付属病院(Korle Bu Teaching Hospital)その1


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撮影日時:1987年11月10日
場所:  ガーナ大学医学部付属病院(Korle Bu Teaching Hospital,
ーーーーーUniversity of Ghana Medical School, Accra, Ghana)


ーーーー撮影した写真ネガが見つかりました。
医学部長Dr. Archampongの案内で小児科外来,手術室,病室の見学
することができました。

印象に残ったのは -------毎年60〜70名医学生,歯学生6~10人ほど
卒業する。旧宗主国の イギリス,あるいはアメリカへ留学するのも
毎年数名いるが,母国のガーナにはその5%しか戻ってこない ------------ 

ガーナへの医療援助の要点は,子どもへのワクチン無償援助,高価な医療機器
の無償提供,医薬品の無償提供,診療所や病院の建設を援助国が一方的にする
のでは,ガーナの人の自助努力を妨げるだけです。まずここを改善することが
先決でしょう。


病院玄関:この病院を創設した英国人の造像があります
医学部
医学部の前で
病院の全景:日本なら立て替えするほど傷んでいました
Dr. Archampong 医学部長。カラフルな看護婦の制服。
病室から敷地内をみる

ガーナ共和国の首都アクラ

集中豪雨の梅雨が明け,この1週間は反転して猛暑となりました。
熱帯地方のガーナに出張した時の写真のネガが見つかりましたので,掲載します。

滞在日時 :1987年11月8〜11日
場所   :ガーナ共和国の首都アクラ
在留日本人:154名

電気  :220V,50c/sですがしばし停電
上水道 :しばし断水あり
市内電話:固定電話は殆ど不通で無線で連絡
宿泊  :第一級ホテルMarriot Hotel。温水が故障,クーラーは騒音


注意ガーナへの入国には黄熱病ワクチンを接種したという証明書が必要


WHO の渡航勧告:
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
Yellow Fever  : 
    Country requirement: a yellow fever vaccination certificate is required from all travellers 
    over 9 months of age.
Malaria   :
    Malaria risk due predominantly to P. falciparum exists throughout the year in the 
    whole country. Resistance to chloroquine and sulfadoxine-pyrimethamine reported.   
    Recommended prevention: Mosquito bite prevention plus atovaquone-proguanil 
    chemoprophylaxis doxycycline or mefloquine (select according to reported resistance pattern)
Rabies   :
    Rabies risk: High risk. pre-exposure immunization recommended for travellers and other 
    people for whom contact with domestic animals particularly dogs and other rabiesvectors is likely.
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

カイロからエジプト航空でナイジェリアのKano,Lagosを経由して約8時間で
アクラに到着。

アクラのKotoka international airportに着陸前
アクラ市内。英国式のパンも販売
アクラ市内の道路
宿泊ホテルAccra Mariott hotel

Wednesday, July 21, 2010

ワーテルロー


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ブルッセルの南,数キロにワーテルローWaterlooという小さい町があります。
1815年にイギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、ナポレオン率いる
フランス軍を破った戦い(Bataille de Waterloo, The Battle of Waterloo)があ
った場所です。ライオンの丘 Butte du Lionという人工の丘が築かれており観光
名所になっています

ライオンの丘 Butte du Lionからみた戦場,だだっ広い平野です。

その記念日の催し。空砲ですが迫力あり。

Sunday, July 18, 2010

ボードゥワン国王とファビオラ女王

次の写真は研究所 The de Duve Institute 設立10周年に来られたベルギー
国王御夫妻を撮影したものです(1985年10月)。所員一同で玄関で
お出迎えしましたがファビオラ女王にみんなの目が向いてました。
女性研究員が,膝をおり会釈している姿が印象的でした。

ボードワン国王私の前で立ち止まられ,日本からの留学生かとお尋
ねになりました。背が高く見上げるようでしたが温和な顔で--------
----- その後,カメラをもって撮影する機会に恵まれました。


ファビオラ女王とChristian de Duve 博士(1974ノーベル医学生理学賞)

前ベルギー国王ボードゥアン1世。Masson教授

フランス語系ルーバン大学医学部 Université Catholique de Louvain

その昔,留学してましたフランス語系ルーバン大学(Université catholique de Louvain)
の医学部,付属病院,付属研究所はブルッセルの郊外の静かな田舎にあります。
地下鉄駅Almaが医学部キャンパス内まできていますから自動車がなくてもアクセス
できます。

注意)ルーヴァン・カトリック大学は1425年にルーバン市に創立された。1968年に
言語別に2つに分割された。オランダ語系はKatholieke Universiteit Leuvenとして
ルーバン市にそのまま居残り,フランス語系大学Université catholique de Louvainは
ブルッセルの南,Louvain-la-Neuveに新しいキャンパス(医学系を除き)を作った .

ルーバン大学医学部のキャンパス

研究室のメンバー,手前はProf. Masson. 1985年10月

Prof. Jean-Pierre Vaerman

Dr. Collet-Cassart Daniel and myself
手前の器械はラテックス粒子の凝集を利用して
蛋白質の微量定量できるもの

住んでいたキャンパス内にあるアパート。
セントラル・ヒーテング。電気は220V,50Hz

アパートの横の通り(Clos Chapelle aux Champs)

Avenue Emile Vandervelde とアパートの近くの教会

ルーバン大学医学部付属病院 Cliniques Universitaires Saint-Luc


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ブルッセルの郊外にあるフランス語系ルーバン大学(Université catholique de Louvain)
医学部付属病院で Cliniques universitaires Saint-Luc と呼ばれています。
Avenue Hippocrate 10 , 1200 Bruxelles, Belgique. 静かな郊外です。大学キャンパス内
の地下鉄駅Almaからすぐ近くにあります。
地下鉄Metroの駅。駅の間隔は東京のものより短い。
抜き打ちで切符所持をチェックされ所持してないと
何万円の罰金が課せられます。
                                      
フランス語系ルーバン大学医学部付属病院(約1,000床)Cliniques universitaires Saint-Luc 
小児科病棟
未熟児に哺乳中

Saturday, July 17, 2010

上海と高杉晋作

1862年5月〜7月にかけ高杉晋作は、幕府使節随行員として長崎から
中国の上海の視察にでかけました。 外灘地区の西洋式建築物には驚
くとともに,英国,フランス,オランダ,アメリカなどの欧米列強に
占領された上海租界の現状をみるにつけ強い衝撃を受けます。

1863年5月に長州藩
下関戦争をはじめます。翌年にはロンドン大学
に留学中の伊藤と井上馨は四国連合による下関攻撃が近いことを知ら
され、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国。3か月かかり6月に横浜に到着。
戦争を回避するように説得をしたが長州藩の主戦論の勢いを止められず。

1864年8月には英国、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊
が下関を砲撃、砲台が占拠されます。長州藩の和議交渉を任されたのは
弱冠24才の高杉。

連合国は下関の彦島の租借を要求しますが,高杉は頑として拒否し,
賠償金は長州でなく幕府に請求するよう交渉をまとめる。上海を見聞
した晋作には欧米列強の次のターゲットが日本であり,上海と同じよう
には彼らにはさせないぞとの思いがあった。



この5月から上海万博が開催されています。かつて,第2次世界大戦前,
東洋のパリといわれた上海の繁栄を再び誇ることができるのかどうか?
これからです。
Shanghai world financial center(森ビル)の展望台
からみた浦東地区(10年前まで沼地),黄浦江及び 外灘

黄浦江(川の水は泥を含むため褐色),対岸は 外灘(バンド,The Bund ,Waitan)

ヨウロッパからの観光客

Thursday, July 15, 2010

長州5傑の顕彰碑




山口大学の正門近くにある長州5傑の顕彰碑 

ロンドン大学と山口大学との学術交流協定の締結を記念して2006年4月
に山口大学本部(山口市)に建てられたものです。その除幕式には英国
公使が出席されたそうです。さぞ心中は複雑だったでしょう --------

------ なぜかというと,このレリーフの中の井上馨と伊藤博文は,その昔,
1862年12月高杉晋作の指揮のもとで,品川御殿山に建設中であった英国
公使館を焼き討ちした実行犯のメンバーと言い伝えられているからです。

1863年5月長州藩は攘夷を実行。松下村塾の秀才であった久坂玄瑞らは
まず10日,下関海峡を通過中のアメリカの商船ベンプローク号を砲撃,
その後23日,フランスの通報艦船を,26日にはオランダの軍艦へと次々
に外国船に砲撃を加えました。世に言う下関戦争(馬関戦争)の始まり。

同じ時期,5月12日,長州藩の5名の若者(井上馨,遠藤謹助,井上勝,
山尾庸三,伊藤博文)はロンドン大学に留学するために横浜港を出向
(密航)。長州藩は口では攘夷(外国人を実力行使で排斥)をとなえな
がら,水面下で英国に長州の若者を留学させる2面作戦をとるわけです
(長州の二枚舌)。

渡航に際し,その資金面の工夫をした大村益次郎はこの5名に訓示を与え
ました。

『 君たちは将来日本を背負う責任のある者だ。
兵器を購入する資金を君たちにやることは,
君たちが将来の日本をつくる生きた兵器と思うからだ。
責任は全て自分が負うから,安心して新知識を学んでこい 』

                                             
 井上馨(左下)遠藤謹助(左上)井上勝(中央)
山尾庸三(右下)伊藤博文(右上)