Saturday, July 17, 2010

上海と高杉晋作

1862年5月〜7月にかけ高杉晋作は、幕府使節随行員として長崎から
中国の上海の視察にでかけました。 外灘地区の西洋式建築物には驚
くとともに,英国,フランス,オランダ,アメリカなどの欧米列強に
占領された上海租界の現状をみるにつけ強い衝撃を受けます。

1863年5月に長州藩
下関戦争をはじめます。翌年にはロンドン大学
に留学中の伊藤と井上馨は四国連合による下関攻撃が近いことを知ら
され、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国。3か月かかり6月に横浜に到着。
戦争を回避するように説得をしたが長州藩の主戦論の勢いを止められず。

1864年8月には英国、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊
が下関を砲撃、砲台が占拠されます。長州藩の和議交渉を任されたのは
弱冠24才の高杉。

連合国は下関の彦島の租借を要求しますが,高杉は頑として拒否し,
賠償金は長州でなく幕府に請求するよう交渉をまとめる。上海を見聞
した晋作には欧米列強の次のターゲットが日本であり,上海と同じよう
には彼らにはさせないぞとの思いがあった。



この5月から上海万博が開催されています。かつて,第2次世界大戦前,
東洋のパリといわれた上海の繁栄を再び誇ることができるのかどうか?
これからです。
Shanghai world financial center(森ビル)の展望台
からみた浦東地区(10年前まで沼地),黄浦江及び 外灘

黄浦江(川の水は泥を含むため褐色),対岸は 外灘(バンド,The Bund ,Waitan)

ヨウロッパからの観光客